群体化の先に

クオリアなるモノは本当に存在するのか? あるいは、意識は哲学的ゾンビの行動の結果生まれている副産物的幻想ではないのか? など、この手の哲学的問いっていうのは僕程度が一生懸命考えた所で答えが出そうな物ではないのだけれど、twitterとかで自分がどう変わってきているか、というのを考えると、恐ろしいようなそんな気分になってしまう事がある。
「使うメディアが人間の思考に影響を与える」:というのは特に入力に関しては当たり前過ぎ。ただ、出力に関しては、自分が考える→結果を出力、という発想で考える事が多いので、その影響を軽視してしまう傾向にあると思う。しかし結局出力というのはその過程で必ず自分へのフィードバックがあるから、入力しているのと本質的になんら変わらず、しかもその元となるクオリア(w)は自分の中にさっきあったモノであり、それとの対応付けが容易という意味で、自分へ与える影響は非常に大きくなる。このあたり、受動意識仮説とかと合わせて考えるとお得、、、じゃなくてそら恐ろしくなる。
twitterをやり始めるとブログ更新が滞り始める」:こちらも良く聞く話だけれど、僕自身もtwitterをやりはじめてから、極端にはてダ出力が減っている。手軽、ラク、どこでもできる、たくさんの人とリアルタイムに繋がってる感がある、このあたりが原因? 実際人間の思考というのは結構散文的バラバラで、よーく今の自分の心の声を聞いてみると、「あー腹減ったなーなにこの景色、緑がきれいだなー、ええっとマルチエフェクタが邪魔だどけようと思ったけど、マウスの下が汚いから掃除してみよう」とかが平行実行されて浮かんでるのに気がついてもうカオス!!という思考の深淵から、何か意味のあると思われる要素をもう一人の自分、メタ自分が拾ってきて、一連の因果律が揃った何らかの思考形態と思えるような物に整形して、それを「自分の全思考だ」と思い込んでいる節がある。
そう、出力なのです。
実際、この文章を書いている間にも、1文を書いているうちに次の文が浮かんできてしまって、深い思考をせずに、いろんな概念を書き綴る、ということを何度か繰り返してる。書いた文章の断片から意味のあるフレーズを作ろうと、入力→出力が入り交じって一つの思考組み替えカットアンドペースト作業をしている。
twitterで出力しているのはまさに自分の思考自体で、本来なら自分内部でメタ自分が取捨選択した物を出している筈。人間はテキストあるいは言語、という形で既に外部から影響を受けているわけなんだけど、その上で、twitterという影響を受け、内部でのメタ自分を更に超えて、外に出力した情報から、因果律の揃った何らかの思考形態を(ry twilogやとぅぎゃったーはこれをさらに強力にしていく? 本当にこの世は再帰的定義されているなあということを改めて感じる。と同時に、あれれ?とぅぎゃったー? そう自他境界まで曖昧になってきているじゃないだろうか?
で、そのどうこう言ってるtwitter自身に

とか書いた事があったんだけれど、まさにそういうことだなあと感じた。ひょっとしたら地球レベルの意識がいま、ネット上に生まれようとしているのかもしれない。