幼児とLEGOとゲーム脳と

最近息子が如実に「話を聞いていない」ことが増えた。

ひとつ気がついたことが、,,

そういえば。。。

アウトレットのLEGOショップに行ったとき、あまりに安かったので思わず Technicシリーズの車と飛行機を買ってあげた。

最初は僕が作ってあげないとダメだったんだけど、ある程度教えたら驚異的なスピードで吸収し始めた。説明書に書いてある数を見て、位置を考えて組み合わせて、おかしいなー・・・と、カンペ見ながらながら、二次元の概念図に合わせて三次元のモノを構築する、ということを一通り覚えていった。で、最初は僕もただただ感動、すげーすげーと大喜びしていた。そのうちに説明書にある3種類についてはびっくりするくらいのスピードで組み立てられるようになってきた。さすがは子供。白紙状態。

しかし、しばらくして何か違和感に気がついた。同じものしか作ってないのだ。何度も「さあ、この説明書に書いていないような新しいものも作ってみよう!」と話しかけても聞いていない。とにかく賽の河原で石を積む子供のように同じことを半強制的に行っているのだ。気が狂ったように滅亡に向けてカウントダウン、、いやそーじゃなくって。

Countdown to Extinction

Countdown to Extinction

だんだん「大丈夫かなこれ?」と思うようになってきた。それまで楽しんでいたQuadrillaも積み木もあまり触らなくなった。そうこうしているうちにそれはやってきた。

ぶちきれる

「片付けといてね」
「トイレいっといてね」
「歯磨きに行くよ」
どれも素直に「はい」。しかしいつまで待っても動かない。だんだんきつく言うことが多くなってきて、ある日、ついに僕がブチキレた。「いい加減にしろ!」
そのときは物凄く悲しそうに泣くんだけど、しかし、よく見ると大変不満そう。明らかに不平があって、それを見せ付けるためにあてつけのように泣いている。そのせいで余計にきつく怒ってしまうという負のスパイラル状態。しかも少しするとまた同じことを繰り返す。相変わらずレゴの高速組立作業は続けていたのだけれども、まだそのときは関連性に気がついていなかったので、妻と二人で首をかしげていた。「なんか前よりバカっぽくなってない?」
先に気がついたのは妻のほうだった。

「あれがまずいんじゃないかな?」

妻に言われた。「最近怒りすぎ」「うーん確かに。ちょっと異常かも」「あれなんだけど、LEGOがね・・・」といわれて、ああ、なるほどな、と思った。確かにLEGOそれ自体はすばらしい。完全なアナログほどの複雑さは押さえた上で、膨大な組み合わせを可能にしていて、創造性という意味で子供の教育には非常にいい。しかしTechnicシリーズは違う。子供が触るには問題があった。それは、複雑すぎて自分で考えることを放棄してしまう上、説明書に従えば誰でもちょっとしたかっこいいものが頭を使わずに「できて」しまうのだ。これは恐ろしい麻薬だと感じた。
言ってみればチートシートを見ながらズルをしているなものだ。自分では何もせずに、しかし経験の無い子供の感覚からすれば「自分が作った」という変な自信をつけてしまう。説明書見る見ないは実は関係ない。自分で編み出したものでない以上、そこに自分はどこにも無い。これが発展すると「絶対に自分には作れない」という無意識層から「これはどうでもいい」「考えなくていい」とか「やってる人はえらいと思うよ(といいつつ本心から思ってない)」などの子供特有の愚かで無根拠な自信に進んでしまうんで無かろうか。
考えない上に自尊心が強くなる。そして、何でもできる自分にわからないことはない。だから理解できていなくてもとりあえず返事。自分にはより大事なことがあって、それを邪魔されるのは我慢なら無い。まさに現状にぴったりと感じた。
ゲーム脳というのには反対だったし、今でもゲームすること自体がバカを促進するとは全く思っていないけれども、ひとつだけ気がついた。まだ自分で試行錯誤した経験・能力のない幼児にゲームを与えると、その容易さから、本当は自分でできないことまで出来ると錯覚してしまい脳のトレーニングを途中放棄してしまう危険性があるのではないだろうか。
そしてこれらは僕たち大人にも見事に当てはまる。

結論

大変反省している。いまは「このLEGOクルマはもう少し大きくなってからね」ということにして封印している。
結果、冗談のように状況は改善した。お話はまた注意深く聞けるようになったし、以前のようにQuadrillaも積み木も良く遊ぶようになっている。現在のところは、だけど。
なんというすばらしい教師。これからもいろいろと学ぶことがあるんだろうな。と思うと妙にwktkしてしまう僕は救いようが無いかもしれない(にょ